池田瓢阿 | プロフィール

昭和26年(1951)、東京都生まれ。
武蔵野美術大学を卒業後、竹芸の道に進む。
昭和63年(1988)より、日本橋三越本店において定期的に個展を開催。
平成5年(1993)、3代目瓢阿を襲名。古典の基本をしっかりと押さえつつ、竹芸の新しい可能性を探って精力的に活動。また、竹に関する茶道具や民俗などの研究に力を注いでいる。

現在、竹芸教室「竹樂会」(昭和31年〈1956〉、2代・瓢阿創立)を主宰するとともに、淡交会巡回講師、淡交カルチャー教室講師、三越カルチャーセンター講師、NHK文化センター講師などをつとめる。
おもな著書に『茶の竹芸 籠花入と竹花入 その用と美』『近代の茶杓 数寄者たちの優美な手すさび』『籠と竹のよもやまばなし』、茶の湯手づくりBOOK『茶杓・共筒』『竹花入』『茶席の籠』(いずれも淡交社)、『趣向の茶事』(世界文化社)などがある。

  

池田泰輔 | プロフィール

昭和56年(1981)、東京都生まれ。
武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒業。

大学を卒業後、父である三代・瓢阿に師事。「竹樂会」講師をつとめる。また、茶道に精進するとともに、異分野の若手作家たちと組んで新たな作品づくりにも意欲的に挑戦。月刊茶道誌『淡交』や『新版茶花大事典』(淡交社)などで、茶道具のイラストを担当。

名前の由来と歴代

池田瓢阿家は、祖父である初代が近代の大茶人・益田鈍翁(1848~1938)の依頼で、小堀遠州所持の「瓢籠」を巧みに写し、「瓢阿」の号を賜わったことによりはじまる。その後、二代・瓢阿である父も鈍翁より薫陶を受け、戦後はいち早く竹芸教室を開き、多くの茶の湯愛好家に籠づくりの楽しさを伝えてくれた。
瓢阿の原点である2人の経歴は、下記の通り。

初代・瓢阿(1881~1933)

本名・善太郎。和歌山県田辺町出身。先祖は代々、紀州田辺藩の勘定方を務めていた。
善太郎は、父・善助が和歌山市内に興した化粧水会社の事業拡大のため、父とともに大阪に移住。長じて師範学校に通い、(旧制)中学校の漢文教師となるも、証券会社に転職。その通勤途中で、妻となる田村琴子と出会う。明治41年(1908)に結婚、一男一女をもうけた。その一男が、二代・瓢阿となる英之助である。
独立後は証券関係の記事を載せる新聞社を設立。事業が安定すると、清元・長唄・浄瑠璃などの音曲を習い、陶芸や油絵、水彩画を楽しみ、籠づくりも書生の中国人青年から手ほどきを受けたのを皮切りに、大阪の籠師に弟子入りするほど熱中したという。一方の琴子も、当時の流行作家・渡辺霞亭に弟子入りして小説を代筆したり、主婦の友社の大阪特派員をつとめるようなキャリア・ウーマンであった。
大正末期頃、東京・赤坂氷川町に転居。投資顧問として生計を立てていたが、趣味の籠づくりが高じて、竹芸の道に生きることを決意。そして、東京を代表する古美術商「赤坂水戸幸」の初代・吉田五郎三郎の仲介により、益田鈍翁に認められ、昭和3年(1928)頃に、鈍翁所持の「唐物瓢箪籠花入(瓢籠)」を写したことから、鈍翁より「瓢阿」の号を賜わり、品川にあった邸内に一軒を与えられた。仕事は、名物籠の写し制作や茶事に用いられる翁好みの籠を考案することであり、その合間に鈍翁の茶事に同席することもあったという。代表作は小堀遠州所持の「唐物瓢箪籠花入」のほか、利休所持の「耳付広口籠」、「達磨籠炭取」などの写しで、鈍翁の好みを受けて、驚くほど、ざんぐりと力強い作風を特徴とし、鈍翁に評価された。しかし、同8年(1933)3月、54歳で急逝。

2代・瓢阿(1914~2003)

本名・英之助。油絵画家を志望し、川端画塾に通っていたが、父の急逝により、19歳で瓢阿の跡目を継ぐ。襲名の許しを得るために、88歳になる鈍翁を訪ねた際「若さを無駄にせず勉強せよ。我が家の蔵の物は自由に見て研究すべし。また、茶友の所有する名籠をみられるように計らうから写してみよ。古来の名品の模写こそ最上の勉強ならん」と励まされ、昭和13年(1938)、鈍翁が亡くなるまで指導を受けた。鈍翁亡き後は、団琢磨、藤原銀次郎、馬越恭平、高橋箒庵、三井守之助など、名だたる諸家の蔵品を写すとともに、古美術商の方々からも教示を受け、制作に励んだ。同14年(1939)、宮本キヨと結婚、二男一女をもうける。同18年(1943)に戦地に召集され、地雷で片足を失う。以後、義足が欠かせぬ生活となるが、それを感じさせる動きは一切なかった。戦後は井の頭牟礼にあった赤坂水戸幸の別荘に寄寓し、同25年(1950)に井の頭公園の駅前に小さいながらも居を構えた。それが、現在の工房である。
こうして戦前、各界の名士に知己を得たことが、戦後の仕事にもつながり、松永耳庵や畠山一清などの仕事をしながら、同28年(1953)には竹芸教室「竹樂会」を創立。侘び籠を中心として、茶杓や竹花入などの制作に加え、研究・執筆・講演など、多方面に活躍するとともに、絵画や陶芸を楽しみ、生涯20冊ほどの著書を残したのは、両親の存在が深く影響しているといえよう。そして、平成5年に代を譲り、以後「瓢翁」と名乗りながら余生を楽しみ、同15年10月2日に没した。享年89歳。

※もっと詳しくお知りになりたい方は、『籠と竹のよもやまばなし』(淡交社刊)をご覧ください。

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